岡山市で生まれた私は生まれて間もなく、太平洋戦争の影響で高松市のさらに奥深い神山村西鹿庭へ、家族揃って疎開をしました(この「疎開」という言葉は、あと二十年もしたら死語に近い形になるのではないでしょうか?)。
疎開した村から、父親の勤める会社香川ハムまでは自転車で二時間という距離。往復4時間をかけて父親は毎日会社に通っていました。また三人兄弟で二番目の私は、小学校へは片道一時間をかけて通うという日々がスタートしたのです。
新聞に入っている分譲マンションの折込チラシ。「銀座までドア・ツー・ドアで一時間」「始発で座れて大手町まで50分」というフレーズを読むと、戦後半世紀以上経ち、交通網が発達し、スピードに加えて利便性を追及する時代になったなとつくづく思います。
当時は、歩いて学校に通う。自転車や一日に数本しかないバスで街に行く。
それ以外に頼るべきものが無かったとはいえ、何事も自分のカラダでしっかり生きていくということを、小さい頃から自然と学ばされました。
今でも思い出に残っているのは、疎開先の家を兄と一緒に「行ってきます!」と大きな声で出発して歩いていると、同じように仲間達がぞろぞろと二人、三人と加わります。どんどんと歩いて行くうちに、やがて小学校に通う子供達の集団が出来上がっていきます。
ワイワイ・ガヤガヤ。
今で言う集団登校のようなものが形成されるのです。
往復二時間。雨の日も寒い日も、そして暑い日も、これが毎日続きます。
学校帰りは山に入ってシャブシャブ(「グミ」をそう呼んでました)を採って食べたり、川に入ってハゼやアカマツを捕まえたりして、学校帰りは毎日自然の中で遊ぶのが当たり前のことでした。
学校の仲間と遊ぶ寄り道時間を考えると、往復に使う通学時間は3時間を優に超えていたかもしれません。
私の住む東京では、私立の幼稚園ではバスの送迎付きがあります。小学生達は寄り道をすることなく、早く家に帰り塾通い。その上保安上から小学生に携帯を持たせ、GPSで子供の位置確認をしているご家庭もあるとか。
異様な犯罪が増えたとはいえ、都会の子は可愛そうだなと思います。山や川で戯れ夏は真っ黒に日焼けし、自然と逞しくなっていく、そんな環境を望むのはもう無理なんでしょうかね。