6歳の旅 四国から信州へ
私の母親の郷里は信州(長野県)豊科町の旧原村で、実家は農家でした。女5人男3人の8人兄弟姉妹という大家族の五番目の子供です。
核家族が進み、少子化対策に国が頭を悩ませる現在では信じられない数ではないでしょうか。明治・大正時代の国が掲げる「産めや 増やせや」のスローガンの下では、5人や6人の子供が居る家庭は当たり前だったのです。
この母親の賑やかな大家族も、悲しいことに母の兄二人は戦死し、男で残ったのは弟だけでした。私にとって叔父に当たる母の弟は、軍隊では憲兵をしていました。身長は182センチもあり、当時では珍しく大きなカラダをしており、見るからに屈強そうで子供ながら憧れていたのを覚えています。
その叔父も戦後地元に帰ってからすぐに腎臓を悪くしました。終戦直前には広島で戦災処理に当たっていた関係から、叔母達は原爆による放射能を浴びた水を飲んだからではと嘆いていました。
この叔父の見舞いと看病をする為に、母は私の兄と弟を連れて実家の信州へ高松から出かけたのでした。
そして私も行くことになりましたが、何と信じられないことに、一人で行くことになったのです。母や兄、弟と一緒ではなく、何故私一人で行くはめになったのか、その理由は覚えていません。でも当時小学生一年の私は、たった一人で高松から信州まで旅立つことになりました。
WEBの乗り換え案内で調べてみると、高松から長野まで、新幹線を利用して現在では約6時間で行くことが出来ます。
当時は新幹線なんていう便利な乗り物はあるわけもなく、連絡船や列車を乗り継いでひたすら列車に乗り続け、二日がかりの旅です。
ちなみに大雑把に旅程を思い起こすと、四国香川県木田郡の西鹿庭(にしかにわ)という田舎から約4km歩いて琴電白山駅で電車に乗り高松築港駅へ。そこから宇高連絡船で瀬戸内海を渡り宇野駅(港)に行き、宇野線で岡山駅へ向かいます。そして山陽本線に乗り換え神戸三宮駅で乗り換えて名古屋駅に。名古屋発の中央本線準急列車に乗り、信州松本駅に行きます。最後に大糸南線に乗り換えて、目的地の豊科駅に到着するという工程です。ざっと考えても25時間、乗り物に乗りっぱなしの気の遠くなるような2日掛りの行程を、小学校1年生で経験をしたのです。
今でも鮮明に覚えているのが、見送りに来た父親の顔です。
当然のことながら携帯電話どころか、電話さえも普及していない時代です。よほど父親は心配をしたのだと思います。旅程を書いた札を作ってくれて私の首に掲げてくれたのです。
「前にも行っているから心配ないよ!」
と、私は強がりを言いましたが、やはり不安な気持ちもあり、父親手作りの札を首に照れながらかけたものでした。
いよいよ小学一年生の25時間をかけた旅の始まりです。連絡船が銅鑼の音と共に桟橋を離れ始めます。
「行ってきます!」
船の上から、大きな声で父親に向って叫びました。そして父親の姿が見えなくなるまで手を振ったのを、今でも鮮明に私の記憶の中に残っています。