海の想いで その2
今年の夏は、お袋の七回忌の法要で高松に行った。
時間があった私は、瀬戸内国際芸術祭で盛り上がっている女木島と男木島に立ち寄ってみた。お袋によく連れられて行った海水浴場だ。何となく昔の風情が残っていて、思わず佇み、海の情景を昔の光景と重ね併せて見てしまった。
瀬戸内海は島が多く、豊島(てしま)も懐かしい思い出がある。
私が高校の頃、父親が島の東側で豚の繁殖養豚の会社を始めたのだ。事務所や宿舎、豚舎棟と共に豚の広大な放牧場も合わせもった施設だった。海岸に沿っており、海岸は白い砂浜で数百メートルにわたっており、それはきれいな光景だった。
高校3年生の夏ここへ同級生の野郎ばかり5名で1週間のキャンプに出掛けた。
高松からの定期船は島の反対側の家浦港から出ているが山越えをして歩いて2時間近くかかる距離だ。
豚を運ぶ不定期船で自前の桟橋まで連れて行ってもらい帰りには1週間後にまたピックアップしてもらうことになっていた。
食料は当然持参で主食の米は、1日一人当たり5合で7日分3升5合ずつ。5人で合計17升5合を持ち込んだ。
さてこのご飯を焚く当番を、100キロの巨体で四国高校柔道のチャンピオンの西原がやると言い出した。何でだろうと思っていたら、大食いの5人が集まればひたすら食べる。彼は当番を理由に、お釜に残ったおこげをかき集め、それをおにぎりにして食べたかったからだ。
白い大きな砂浜は5人だけの海水浴場で、海水パンツなど必要ない。ひたすら遊び、ひたすら食べ、そして寝た。
おかずの為に釣り。
メバル、鯛、キス、ベラ、有り余るほど釣れた
素潜りで、巻貝やサザエを採る。
一番潜れる私は7ー8メートルの深さでも平気で、サザエだった。七輪で壷焼きをやるのだが、ここでも西原が私を散々潜らせている間、勝手に先に「美味い!」と食べていたのを思い出す。
こんな大食漢の連中ばかりだったので、用意していた米はあっという間に無くなっていた。7日目に迎えの船が来ることになっていたが、なんと三日で底をついてしまったのだ。
今のように携帯電話がある時代ではない。船に連絡の取りようも無い。結局私たちは豚の餌のジャガイモ畑の芋を掘って蒸かして食べたのだ。
しかしどうにも米が無いと腹持ちが悪い。
結局我々は一週間の予定のキャンプを米不足で諦め、山道を登り島の反対側にある家浦港まで2時間の道のりを歩いて定期船で帰ることになってしまった。
その仲間たちとは会うたびにこのキャンプの話になり今でも懐かしく盛り上がる。
素っ裸で泳ぎ、釣りをし、貝を採り、メシを喰う。何とも良い時代だった。
小豆島の西方3.7キロにある私たちの懐かしい地、「豊島」は、1990年頃産業廃棄物問題で注目されることになった。
この産業廃棄問題が起こる前、ここは名前の通り豊かで静かな美しい島だった。