学生時代その4(前編)
東北では多くの方が不幸にして亡くなられた。
震災後新聞報道で、津波で流された時の生々しい状況の記事を読むことが多い。すんでのところで助かった方、残念ながら命を落とされた方、運命とは紙一重だとつくづく思う。まして間一髪助かった方でも、同じ場所に居た仲間が不幸にして亡くなったのを知った時、その悲しみの深さは言葉では現すことのできないほど辛いものだと思う。
私は体育会自動車部の次期主将として指名を受けてから、あるラリーに参加し、まさに大切な仲間を失うということを経験した。
体育会の役職交代は四年生になる年の1月に行なわれるので、大学三年の12月に内定を受けることになる。主将の内定を12月に受け、その同じ月に私は仲間を失った。
それは青山学院大学主催の自由参加ラリーでのことだった。立教大学からも気の合った部員同士がチームを組み、数台参加をした。
ラリー競技は、指定された速さで設定された距離を、如何に正確にポイント毎を通過するとうものだ。当時行なわれていたラリー競技は、平均して300キロから500キロの走行距離を走るのが多かった。
ドライバー、ナビゲーター、計測員、予備代役等、役割を分担しチーム組んで走行する。ラリーといっても、公道を走行するのでF-1レースのようにスピードを競うものではない。社会ルール、競技ルールに基づき、チームでコース取りやポイント通過の読みとか仲間で知恵を出し走行する。そしてその結果で順位が付けられるのだ。たまに鹿児島-東京間2000キロ・ラリーというとてつもない距離もあったが、その時参加したラリーは、約300キロのコースを走るものだった。コースは富士五湖周辺から丹沢の山間部を走り、東京へゴールするという設定だ。
スタートは夕方だった。
私のチームは息もピッタリで非常に効率良く走り、各チェック・ポイントも正確に通過し、真夜中過ぎにゴールに到着した。そして部員のクルマも次々にゴールしていく。ゴールした部員達は自車の走行内容を振り返りながら、高順位を期待して部員同士で盛り上がっていた。
そんな矢先だった――。
「ゴールしていない車輌が一台ある」
ラリーは参加する車輌が全車ゴールして、始めて終了となる。私は嫌な胸騒ぎがしていた。当時は携帯電話も無線も無い。何かトラブルが発生した場合は、公衆電話から主催者に電話を入れるのがルールだが、連絡も無い。そしてレース行程内にある警察署からも何の連絡も無かった。
まんじりもしない中で夜が空けていく。
その悲しい知らせは、厚木警察署からだった。
部員五人が乗ったクルマが、丹沢の85メートルもの崖下に転落していた。
「嘘だろ......」
私は叫び声を上げそうになった。絶対に嘘であって欲しい。そう願った。
五人もの部員の乗ったクルマは、崖下で大破していた。二名が即死、三名が幸運にも助かった事故だった――。