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「私のヒストリー」第13回

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学生時代その4(後編)

悲惨な事故だった――。

 クルマは丹沢の崖下85メートルに転落し、大破していた。

 ナビゲーター役と後部右側の二名が即死。ドライバーと後部に居た二人の部員は、怪我はあったものの、奇跡的に命に別状は無かった。その助かった部員が明るくなってから崖を這い上がり、助けを求めたのだった。

 

部員二名の葬儀は、大学のチャペルで行なわれた。

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「大学自動車部、相次ぐ死傷事故!」

  立教大学だけではなく他の大学の自動車部の事故も頻発し、多くのマスコミに社会問題と提起された。連日の報道と、その後の事故処理。学生生活の全てを、私はこれに注ぎ込んだ。

 交通量の増大と共に、広い国道を使うラリーから交通量の少ない地方道路を使う。競技中のミスを取り返すためにスピードを上げるから、無理な運転が起こり事故を起こすという論調で、学生ラリーに警鐘が鳴らされたのだ。この時代をピークに、公道を使うラリーは衰退し、サーキットを使用したラリーへと競技は変わっていった。

 

「君の行く道は、果てしなく遠いー♪」

 我々はこの歌を、何回も涙を浮かべながら歌っていた。

 事故が起きた夏、二年生以上の自動車部員約30名で、亡くなった部員二人の追悼の墓参りに行くことになったのだ。

 部車のいすゞの大型幌つきトラック、ジープ、トヨペットクラウン2台に分乗し、30名で亡くなった部員の墓参りに九州は大分と宮崎に旅立った。

 墓参りを兼ね、交通安全の標語を掲げ、東京から九州往復総距離6000キロを走破する大遠征だった。

 トラックにはマットが敷き詰められ、食料が積み込まれている。仮眠をとりながら交代で運転をする。そしてギターを持ち込んだ部員が、「若者たち」を口ずさむと、自然発生的な合唱になっていき、日焼けと泥だらけの真っ黒い顔に涙が零れ落ちていった。

 

 亡くなった部員の墓は、日田市と延岡市にある。

 二人の墓前で、我々は全員で手を合わせ、家族の方達と一緒にみんなで立教大学校歌、そして応援歌を合唱した。

 6000キロの長い道のり。クルマを交代で運転し、隊列を組みながら安全運転で走る。土埃の中、誰もが真っ黒な顔になっていた。そして宿舎に着くと、真っ先にクルマの点検整備に取り掛かる。

亡くなった仲間に会いに行く、悲しい旅だった――。

 

469maランドスタッフより>

小嶋さんの幼少時代から、学生時代のストーリー如何でしたでしょうか? いよいよ次回からは、社会人編のスタートになります。日本ハムに入社し、プロ野球日本ハム球団のメンバーとして活躍した話が始まります。乞うご期待を!


「私のヒストリー」第12回

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学生時代その4(前編)

東北では多くの方が不幸にして亡くなられた。

震災後新聞報道で、津波で流された時の生々しい状況の記事を読むことが多い。すんでのところで助かった方、残念ながら命を落とされた方、運命とは紙一重だとつくづく思う。まして間一髪助かった方でも、同じ場所に居た仲間が不幸にして亡くなったのを知った時、その悲しみの深さは言葉では現すことのできないほど辛いものだと思う。

私は体育会自動車部の次期主将として指名を受けてから、あるラリーに参加し、まさに大切な仲間を失うということを経験した。

体育会の役職交代は四年生になる年の1月に行なわれるので、大学三年の12月に内定を受けることになる。主将の内定を12月に受け、その同じ月に私は仲間を失った。

それは青山学院大学主催の自由参加ラリーでのことだった。立教大学からも気の合った部員同士がチームを組み、数台参加をした。

ラリー競技は、指定された速さで設定された距離を、如何に正確にポイント毎を通過するとうものだ。当時行なわれていたラリー競技は、平均して300キロから500キロの走行距離を走るのが多かった。

ドライバー、ナビゲーター、計測員、予備代役等、役割を分担しチーム組んで走行する。ラリーといっても、公道を走行するのでF-1レースのようにスピードを競うものではない。社会ルール、競技ルールに基づき、チームでコース取りやポイント通過の読みとか仲間で知恵を出し走行する。そしてその結果で順位が付けられるのだ。たまに鹿児島-東京間2000キロ・ラリーというとてつもない距離もあったが、その時参加したラリーは、約300キロのコースを走るものだった。コースは富士五湖周辺から丹沢の山間部を走り、東京へゴールするという設定だ。

スタートは夕方だった。

私のチームは息もピッタリで非常に効率良く走り、各チェック・ポイントも正確に通過し、真夜中過ぎにゴールに到着した。そして部員のクルマも次々にゴールしていく。ゴールした部員達は自車の走行内容を振り返りながら、高順位を期待して部員同士で盛り上がっていた。

そんな矢先だった――。

「ゴールしていない車輌が一台ある」

 ラリーは参加する車輌が全車ゴールして、始めて終了となる。私は嫌な胸騒ぎがしていた。当時は携帯電話も無線も無い。何かトラブルが発生した場合は、公衆電話から主催者に電話を入れるのがルールだが、連絡も無い。そしてレース行程内にある警察署からも何の連絡も無かった。

 まんじりもしない中で夜が空けていく。

 その悲しい知らせは、厚木警察署からだった。

 部員五人が乗ったクルマが、丹沢の85メートルもの崖下に転落していた。

「嘘だろ......」

 私は叫び声を上げそうになった。絶対に嘘であって欲しい。そう願った。

 五人もの部員の乗ったクルマは、崖下で大破していた。二名が即死、三名が幸運にも助かった事故だった――。

「私のヒストリー」第11回

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学生時代その3

今や就職の氷河期で、しかも内定を取るのが大学4年になってからでは遅い時代という。知り合いの大学生を見ていると、時間の余裕が無さ過ぎると思う。部活に取組んだり友人との旅行等、大学時代にしかできないことが沢山あるのに、そんな余裕もないようだ。

 まして驚かされるのが、大学に通いながら専門学校に通っている学生も多くなったという。それも就職活動を優位に進める為だそうだ。気の早い学生は、大学に入ったと同時に就職を視野に入れた活動をするともいう。何ともそら恐ろしい時代になったと思う。

 私の持論だが、大学時代とは社会に出るためのランディング・ゾーンだと思う。高校生の頃の一定の縛りから解き放たれ、大人として認められながら、行動に責任を持たされる期間だ。だからこそ、四年という時間で多くの人と出会い、汗をかき、そして自分を磨いていくことに時間を割くべきだと私は思う。

 私は体育会自動車部に入ったお陰で、友人というより多くの仲間を持った。笑いあり、涙あり、そして深い悲しみも大切な思い出となった。それもこれも一緒になって同じ時間に汗を流したからに違いない。

 部活の仲間に英語が大の苦手なやつが大勢いた。英会話の必修単位が取れないのだ。

「先生の買い物の手伝いを一週間させて下さい! 先生が英語で指示を出し、それがちゃんと出来たら単位をお願いします」

 私は単位が取れない部員のために、女性の外国人教授にとんでもないお願いをしたのだ。時代が許したといえばそれまでだが、当時の先生も豪快で、「OK」ということになった。

 先生から出される英語の指示を必死で聞き取り、部員たちは買い物にお供し、運転手をし、落ち葉で埋め尽くされた庭の掃除、そしてペンキ塗り等をやらされた。そうして部員たちは追試にパスをしていった。

 自動車部の悩みの一つに、活動費の捻出がある。車検費用や中古車の購入、そして日々のガソリン代に頭を悩ませた。その捻出に一役買ったのがダンス・パーティだ。ご年配の方はご存知だと思うが、今では死語になっている、通称「ダンパ」というやつだ。

 立教大学自動車部のダンパは結構人気があり、多いときで2000枚ものパーティー券をさばいたりした。場所も一丁前に雅叙園や八方園という豪華さだ。

 一度ジョージ川口さんに来て頂き、ソロでドラムを叩いていただいた時には、皆で大感激をしたのを覚えている。

 皆で汗をかき、時には喧嘩もし、困った時は知恵を出し合い助け合う。そんな学生時代だった。だからこそ連帯も生まれた。こういったことが今の学生には無いような気がする。どこかの大学が、東北地区の震災のボランティアに行った学生には単位を渡す、ということが新聞に掲載されていた。素晴らしいことだと思う。そしてそれを知った今の学生諸君はどう行動するのだろうか。

「私のヒストリー」第10回

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 いつも私のヒストリーを読んで頂きありがとうございます。現在この連載は、大学生時代について書いていますが、新しい稿に入る前に、今回の震災において被災に遭われた方々にお見舞いを申し上げると同時に、不幸にも亡くなられた方々に心より哀悼の意を表する次第です。

私は環境問題に興味を持ち、少しでも私の経験がお役に立てればと469maランドに寄稿をしています。そして今回の災害が起きました。この災害は被災地だけでなく、地震・津波による原発施設への損害、そして放射能汚染という問題を引き起こしました。

情報はマスコミ報道で知るだけですが、今回の原発問題は国のエネルギー政策の大きな分岐点になるかもしれませんね。環境にクリーンなエネルギーとして進められてきた原子力がこういった事故を引き起こしてしまう。大きな見直しが入るのではと思う次第です。 

この事故と同時に計画停電がスタートしました。電車の運行状態は読めない。家の電気が使えない。加えてガソリンが買えない、そして様々な品不足。いろいろなことが私達の回りに起きています。不便を感じた人は多いと思います。そしてこの不便さと同時に、私達の生活は恵まれていたのだな、としみじみ思った次第です。

 思えば幼い頃、美しい野山、海、川の中で育ち、私は太陽の光を存分に浴びていました。そして戦後の発展と共にいろいろなモノに恵まれてきました。経済の発展はその便利なモノもさほどの苦労も無く手に入るようになっていました。

 今私の回りを見回すと、こまめな消灯を含めた節電をやる方が増えだしております。使いっぱなしから、気を使う形に変わってきています。被災地の方々は、大変な心労を受けこれから前に進もうとしています。被災していない私達が、多少の不便さはあっても我慢していかなければならないことだと思います。

 そして今回の停電に始まり、ちょっとした節電の動きが広まれば、大きな一歩になるのではと思います。使いっぱなしから、考えて使う。家庭も企業も真剣に考える時が来たのかもしれません。

 環境問題の根本は、持続可能な社会を作り上げることです。即ち、次世代を担う子供達に少しでもより良い環境をバトンタッチしていくことです。

 一日でも早く被災地の方々に活力が戻り、街が復興する。そしてその手助けを被災していない我々が積極的に支援していく。私なりにサポートしていきたいと考えています。

 


「私のヒストリー」第9回

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大学生時代 その2

入学式で見た憧れのフォード・フェートン。そしてそれに乗っているのは当時アイドルとして売り出し中の「石田あゆみ」――。

「いいなぁ......」「チクショウ、羨ましい」

 人気アイドル石田あゆみを助手席に乗せ、大学構内でさっそうとハンドルを握っている上級生。私達下級生は垂涎の眼差しで眺めていた。

自動車部の進入部員の多くは、フェートンに乗れると一方的な憧れで入部をしたが、入ってみると運転を許されるのは3年生以上ということを知らされるのには一ヶ月もかからなかった。

下級生達は、ひたすらワックスがけに整備の毎日。私もワックスをかけながら、「必ず乗ってやるぞ」と心の中でつぶやきながら磨いたものだ。

フェートンは、それだけ部にとってステイタスでもあり、貴重なクルマだった。

当時日本国内で動いているのはたったの3台と、上級生に教えてもらったのを覚えている。当然古すぎるクルマなので車検は無いから、学校外の道は走れないから校内のみとなる。

貴重なクルマだからこそ、取材もあちこちあった。

箱根の国道一号線を走らせる時は、仮ナンバーまで取得して準備する。これも部費を稼ぎ出す手段でもあった。まさにフェートンは、老いてますますニーズの高いクルマといえた。

ただ問題なのは、部品である。

とにかく古いクルマだから部品が無い。例えば撮影の時、ブレーキに不安があるとその部品探しに一苦労なのだ。当時千葉の解体屋さんにフォードの解体した部品があると聞くと千葉まで勇んで出かける。けれどそこにあるのは、1930年型よりはるかに新しい車種ばかりで用を足さないことがわかる。そしてまた必死に探し回るということになる。それでもブレーキに関しては、長野の解体屋さんにあることがわかり、フェートンは生き返ったのだ。

現在のように高速鉄道があり、ネットという情報網が完備されていない当時では、それだけ一つの部品を探すのは大変なことだった。

大事なクルマを手間隙掛けて乗る。クルマは一つの文化だと思う。その時代を反映している作品なのではないだろうか。最近では早稲田大学環境総合研究センターと?早稲田環境研究所が中心となり、リサイクル部品の供給側と組んで便利なシステムも完成した。特にリサイクル部品の一つ一つのCO2データまで教えてくれるデータ・バンクが出来上がった。あるものを長く使うということは、非常に良いことだと思う。リサイクルできるものはできるだけリサイクルして使う。私達がフェートンの部品探しに走り回ったように、時代の文化が産んだクルマという作品を長く乗り続ける、そういうものがあっても良いと私は思う。

「私のヒストリー」第8回

 

kojima.jpg大学生の頃

「おいっ、もっとしっかりやらんか!」

 私たちの腕立て伏せを見て、上級生たちの厳しい罵声が飛ぶ。

「何で自動車部なのに腹筋とか、腕立てとかやらせるんだよ......」

体力に自信の無い、同級生がぼやいている。

 

立教大学に入って、私は体育会自動車部に入部していた。大学の構内を1930年式のフォードフェートンが走っていたのだ。それはかの有名なシカゴのギャング、アルカポネが颯爽と乗り回していたクルマだ。映画でしか見たことのない名車が目の前を走っている。自動車部に入ればカポネと同じクルマに乗れる! 私はすぐさま自動車部に入部届けを出したのだ。

自動車部に入れば、毎日憧れのクルマを乗り回せると思った私だが、それは甘い夢ではるか先のことだった。

当然体育会に所属する部だ。体育会としての体力強化も活動のひとつだ。毎日5、6キロのマラソン、腕立てに腹筋、いろいろなメニューをやらされた。そして実技としてエンジンをかからなくした大型トラックのエンジン・クランク回しもやらされる。当時のクルマはバッテリーの性能が今と比較にならないほど悪い為、街中で古いトラックがクランクを回してエンジンをかけている姿を見かけたが、自動車部にある大型のトラックのクランク回しは、10回以上も回せばヘトヘトになり、、相当な体力を要求されたりもする。

自動車部に入ってかっこいいクルマを乗り回そうと思っていた同級生達にとって、この体力強化やクランク回しは「こんなはずじゃなかった......」とぼやくはめになっていた。

それに体育会ということもあり、連帯責任の名の下に、スパナ等の工具類を紛失した時などは、上級生の説教に始まり長時間の正座。そして弛んでいるとの理由でビンタを張る上級生もいた。当時の体育会はどこを見ても同じようなものであり、上下関係は厳しく1年学年が違えば虫けら同然、年上は神様、仏様状態だった。

しかしあまりに理不尽な体罰やイジメの類は、私が学年を一つ上がる度に、みんなで話し合って少しずつでも改善しようと取組んだものだ。

それでもクルマの整備は命に係わる事故につながる危険性もあるので、細心の注意と不手際の罰則だけは規律として残していた。

自動車部としての基本的な運転技術習得は、夏に軽井沢や山中湖で合宿し、集中的にトレーニングを行った。面白いことに今流行のエコドライブを当時から取り入れていた。いわゆるエコラン(効率走行)というやつだ。タイヤの空気圧にオイル点検、無駄なブレーキの不使用に急加速をしない等、いかにガソリンを消費しないで走るかも学習したものだ。

今や環境問題の一環として、クルマの環境負荷が叫ばれている。その対策として、エコドライブは定番となっているが、自動車部に入部したお陰で、今から40年前に私は早くも部活で学んだのだ。

「私のヒストリー」第7回

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海の想いで その2

 

今年の夏は、お袋の七回忌の法要で高松に行った。

 時間があった私は、瀬戸内国際芸術祭で盛り上がっている女木島と男木島に立ち寄ってみた。お袋によく連れられて行った海水浴場だ。何となく昔の風情が残っていて、思わず佇み、海の情景を昔の光景と重ね併せて見てしまった。

 

瀬戸内海は島が多く、豊島(てしま)も懐かしい思い出がある。

 私が高校の頃、父親が島の東側で豚の繁殖養豚の会社を始めたのだ。事務所や宿舎、豚舎棟と共に豚の広大な放牧場も合わせもった施設だった。海岸に沿っており、海岸は白い砂浜で数百メートルにわたっており、それはきれいな光景だった。

 

 高校3年生の夏ここへ同級生の野郎ばかり5名で1週間のキャンプに出掛けた

高松からの定期船は島の反対側の家浦港から出ているが山越えをして歩いて2時間近くかかる距離だ。

豚を運ぶ不定期船で自前の桟橋まで連れて行ってもらい帰りには1週間後にまたピックアップしてもらうことになっていた。

食料は当然持参で主食の米は、1日一人当たり5合で7日分35合ずつ。5人で合計175合を持ち込んだ。

さてこのご飯を焚く当番を、100キロの巨体で四国高校柔道のチャンピオンの西原がやると言い出した。何でだろうと思っていたら、大食いの5人が集まればひたすら食べる。彼は当番を理由に、お釜に残ったおこげをかき集め、それをおにぎりにして食べたかったからだ。

 

白い大きな砂浜は5人だけの海水浴場で、海水パンツなど必要ない。ひたすら遊び、ひたすら食べ、そして寝た。

おかずの為に釣り。

メバル、鯛、キス、ベラ、有り余るほど釣れた

素潜りで、巻貝やサザエを採る。

一番潜れる私は78メートルの深さでも平気で、サザエだった。七輪で壷焼きをやるのだが、ここでも西原が私を散々潜らせている間、勝手に先に「美味い!」と食べていたのを思い出す。

 

 こんな大食漢の連中ばかりだったので、用意していた米はあっという間に無くなっていた。7日目に迎えの船が来ることになっていたが、なんと三日で底をついてしまったのだ。

今のように携帯電話がある時代ではない。船に連絡の取りようも無い。結局私たちは豚の餌のジャガイモ畑の芋を掘って蒸かして食べたのだ。

しかしどうにも米が無いと腹持ちが悪い。

結局我々は一週間の予定のキャンプを米不足で諦め、山道を登り島の反対側にある家浦港まで2時間の道のりを歩いて定期船で帰ることになってしまった。

 

その仲間たちとは会うたびにこのキャンプの話になり今でも懐かしく盛り上がる。

素っ裸で泳ぎ、釣りをし、貝を採り、メシを喰う。何とも良い時代だった。

 

小豆島の西方3.7キロにある私たちの懐かしい地、「豊島」は、1990年頃産業廃棄物問題で注目されることになった。

この産業廃棄問題が起こる前、ここは名前の通り豊かで静かな美しい島だった。

 

「私のヒストリー」第6回 

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海の想いで その1

 「あそこは、ガー太郎(河童)が住んでいるから、足を引っ張られるぞ」
と、言い伝えられているため池があった。
 疎開先の香川県は神山村の「亀石」と呼ばれているため池だった。もともと「讃岐のため池」と呼ばれるように、雨の少ない瀬戸内海では昔から灌漑用水としてため池がそこら中に作られていた。
 今年の夏も猛暑で、ニュース番組では海辺の家族連れの楽しそうな模様とか映されていたが、私たちの子供の頃は洒落たプールや海水浴場というものは無く、疎開先の近所の池や川で悪童の先輩達に連れられて泳ぎを覚えたものだ。

  あちこちのため池で泳ぎの自信を付け始めると、「あそこはダメ」と言われると逆に泳いでみたいと思うのが、子供ながらの冒険心なのかもしれない。
 
小学校に上がる前の年の五歳の時だった。
 
近所に住む小学校1年から6年までの悪童達と亀石の前にやって来た。その中には、小学一年の私の兄も居た。
 
ガー太郎(河童)が住むという亀石は、すり鉢状態になっており、200メートルはある長さだ。
 
さすがに普段、泳いでいるため池とはスケールが違う。この亀石だけは危ないから泳いじゃいけないと近所のおばさん達から何度も言われるのもわかる気がする。
「泳いでみっか」
 誰かが言った。
「泳ぐか」
 そう言いながらも、みんなガー太郎が居たらどうしようと顔に出ている。でも「ヤダ」と言った途端に「弱虫」のレッテルを貼られてしまう。こういう時の集団心理というのはつくづく怖いものだと思う。
 年長の悪童が先陣を切って亀石に入ると、誰も止めようとは言えず次から次に池の中に飛び込んでいく。
 私はこの中で一番の年下。「怖い」が許される一番のチビである。でも私は兄や先輩達につづいて池に飛び込んだのだ。
 普段泳いでいる池よりも何倍も大きな亀石。
  
仲間の悪童たちも必死だったと思う。誰かが溺れたとしても、自分のことで精一杯でとうてい助けることは無理な状況だ。何泳ぎをしたのか覚えてはいない。ひたすら腕を伸ばし、足を放り投げ、ガー太郎が出ませんように。ガー太郎に足を引っ張られませんようにと、必死に泳いだ。

 そしてやっとたどり着いた反対側。
 私たちは、河童が出ると言われる亀石を征服したのだった。
  
その後、近所の大人たちに呆れられたのを覚えている。大人たちはその無謀さに驚いていた。でも大人たちが驚けば驚くほど、自分のやったことが凄いことなんだと思ったものだった。
  
その当時の昭和23年頃は戦後の復興期だ。
  
日本国中自分たちの生活で精一杯で、大人達は日頃子供たちへ目を配る余裕はなかった。学校にもまだプールなど完備されてなく、子供たちをスイミングスクールへ通わせ健康増進と共に泳ぎを覚えるという豊かな時代ではなく、子供たちは危険と背中合わせながら自然の中で育たざるを得ない時代でもあった。
 そんな時代背景は、大人だけでなく、子供も強くしていくのではないのだろうか。
 従って、人に頼るということをせず、自分の人生は自分で決断し切り開いてゆくものだという私の人生観は、子供の時から自然に身に付いたものではないかと感じている。

「私のヒストリー」第5回

 

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「おいっ。窓だ、窓を締めろ!」
 ポーっという汽笛に続いて大人たちの大声が車内に響きました。
 列車に揺られウトウトしていると、同じ車両に居る大人達が大慌てで窓を締め出しています。蒸し暑い車内でせっかく入り込んでくる心地よい風を何で止めてしまうんだろう、と思っていたら、私の乗った列車は、まさにトンネルに入って行くところでした。
 蒸気機関車が窓を開けてトンネルに突入したら、煤煙が列車の中に入り込んで真っ黒になってしまいます。
 ですからトンネルが近づく度に、窓側の人は大変です。ほらっトンネルだ! とみんな慌てて窓を閉めるのです。

父親に見送られ、不安な思いで高松築港をたった一人で出た私ですが、乗り換えた汽車のこんなトンネル騒ぎで、不安な気持ちも何となく薄れるものでした。
 トンネルが近づくと汽笛がポーっと鳴る。みんなが「ほらっ来たぞ!」「急げ!」と慌てて窓を閉め、トンネルを抜けると窓を開ける。しまいにその間隔が短くなると窓際の人たちは大騒ぎです。「うわー、間に合わない......」そんな感じで窓際に座った私もいつの間にか窓の開け閉め担当になり、車内では見知らぬ人たちと妙な連帯感が生まれたものでした。

今や新幹線は飛行機よりもエコ出張、という感じでJRは宣伝をしています。窓は密閉され、エアコンが車内を快適にし、最近では電源コンセントに喫煙ルームまで設置されています。本当に時代の進歩とは目を見晴らせるものがありますね。

木曽川に沿って走る列車の窓から、吊り橋やダム湖、そして水力発電所が見えます。香川県では火力発電所しか見たことの無い私にとって、車窓の外は飽きることのない景色でした。
 中央本線の名所「眠覚めの床」を通過する時は、車掌さんからアナウンスが入ります。
木曽川の急流が両岸の花崗岩を縫うように流れています。乗客はその景色の素晴らしさに感嘆の言葉を上げています。

四国から長野までの船と汽車を乗り継いだ小学一年生の一人旅です。
間違ってないだろうか? という不安。トンネルでの窓の開け閉め。列車から眺める外の景色。木曾福島での「釜飯」の美味しさ。まさにいろいろな不安と楽しさが混同した一人旅でした。

やがて大糸南線に乗り換え、目的地の豊科駅です。
駅には、母親や親戚の人達が大勢で迎えに来てくれていました。
病院に入院している叔父さんは、六歳の子供が25時間を旅することを凄く心配してくれていました。
「良く来たな!」
 
病室の叔父さんは私の頭を思い切り優しい目で撫でてくれました。
「不安だったろ」
「へっちゃらだよ」
 四国で日に焼けている上に、列車の煤煙でドス黒くなっている私の顔を見て、叔父さんは「四国の子供は元気がある!」と誉めてくれたのを覚えています。
 へっちゃらと強がった私ですが、でもこの25時間の一人旅は、私を強くしてくれました。小さい頃から、母親には「自分のことは自分でしなさい」といつも躾けられていました。四国から長野の旅は、自分のことは自分でやるという意味で、大きな自信を植えつけさせたのです。
 こうと決めたら、人に頼るよりも自分で成し遂げて行く。こんな気持ちを持つようになったのも、この一人旅だったのかもしれません。

 

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「私のヒストリー」第4回

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6歳の旅 四国から信州へ

私の母親の郷里は信州(長野県)豊科町の旧原村で、実家は農家でした。女5人男3人の8人兄弟姉妹という大家族の五番目の子供です。 
 核家族が進み、少子化対策に国が頭を悩ませる現在では信じられない数ではないでしょうか。明治・大正時代の国が掲げる「産めや 増やせや」のスローガンの下では、5人や6人の子供が居る家庭は当たり前だったのです。

この母親の賑やかな大家族も、悲しいことに母の兄二人は戦死し、男で残ったのは弟だけでした。私にとって叔父に当たる母の弟は、軍隊では憲兵をしていました。身長は182センチもあり、当時では珍しく大きなカラダをしており、見るからに屈強そうで子供ながら憧れていたのを覚えています。
その叔父も戦後地元に帰ってからすぐに腎臓を悪くしました。終戦直前には広島で戦災処理に当たっていた関係から、叔母達は原爆による放射能を浴びた水を飲んだからではと嘆いていました。

この叔父の見舞いと看病をする為に、母は私の兄と弟を連れて実家の信州へ高松から出かけたのでした。
 そして私も行くことになりましたが、何と信じられないことに、一人で行くことになったのです。母や兄、弟と一緒ではなく、何故私一人で行くはめになったのか、その理由は覚えていません。でも当時小学生一年の私は、たった一人で高松から信州まで旅立つことになりました。

WEBの乗り換え案内で調べてみると、高松から長野まで、新幹線を利用して現在では約6時間で行くことが出来ます。

当時は新幹線なんていう便利な乗り物はあるわけもなく、連絡船や列車を乗り継いでひたすら列車に乗り続け、二日がかりの旅です。
ちなみに大雑把に旅程を思い起こすと、四国香川県木田郡の西鹿庭(にしかにわ)という田舎から約4km歩いて琴電白山駅で電車に乗り高松築港駅へ。そこから宇高連絡船で瀬戸内海を渡り宇野駅(港)に行き、宇野線で岡山駅へ向かいます。そして山陽本線に乗り換え神戸三宮駅で乗り換えて名古屋駅に。名古屋発の中央本線準急列車に乗り、信州松本駅に行きます。最後に大糸南線に乗り換えて、目的地の豊科駅に到着するという工程です。ざっと考えても25時間、乗り物に乗りっぱなしの気の遠くなるような2日掛りの行程を、小学校1年生で経験をしたのです。

今でも鮮明に覚えているのが、見送りに来た父親の顔です。
当然のことながら携帯電話どころか、電話さえも普及していない時代です。よほど父親は心配をしたのだと思います。旅程を書いた札を作ってくれて私の首に掲げてくれたのです。
「前にも行っているから心配ないよ!」
と、私は強がりを言いましたが、やはり不安な気持ちもあり、父親手作りの札を首に照れながらかけたものでした。
 いよいよ小学一年生の25時間をかけた旅の始まりです。連絡船が銅鑼の音と共に桟橋を離れ始めます。
  「行ってきます!」
船の上から、大きな声で父親に向って叫びました。そして父親の姿が見えなくなるまで手を振ったのを、今でも鮮明に私の記憶の中に残っています。

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