静岡の思い出 その3

 その電話が入ったのは、親しいお客様とマージャンをやっている時でした。義母からです。秋田に旅行中の私の妻が倒れて今救急車で運ばれたという知らせでした。

 

 私は急いで雀荘を出て、秋田に向かうべく静岡の社宅に向かいました。タクシーに乗っている最中、あの元気な女房が......とずうっと考えてました。

 中学・高校とバレーとテニスで、いろいろな大会で活躍し、北海道時代は二年半という短期間でスキーの指導員に合格するというスポーツ・ウーマンです。

 社宅に戻ったのは、9時前でした。静岡から秋田への行き方を思案しながら、ひとまず、搬送先の病院へ電話を入れました。すると、

 

「今息を引き取りました......」

 

 という医者の凍りつくような声でした。

その夜、義母、義弟、小学5年になる息子を連れ、秋田に向かい一晩中クルマを走らせました。

そして妻と再会したのは病院の霊安室でした。

 

 初めて霊安室という中に入った私。そしてそこには妻が目を閉じていました。

 

 何で俺はここにいるんだろう......。

 何で妻はここで目を閉じているんだろう――。

 

 呆然とそんなことを考えていました。そして一人息子の小学校五年の長男が、大粒の涙を零し、「お母さん!」と呼ぶ声が耳に入りました。

 そして私は目の前の現実を受け入れました。

静岡の思い出 その2

 生活する環境だけでなく、シゴトも至って楽しく出来ました。

元々ビジネス・ライクな付き合いが嫌いで、お客様とどっぷりはまるタイプなので、公私に亘りいろいろな方々に助けて頂き、今も長いお付き合いをさせて頂いてる方が沢山おります。

 

 作家活動も順調で、二作目の「蹴殺」を徳間書店さんから出版しました。また師匠の杉村先生がゲームのシナリオをやるようになりまして、「バイオハザード2」の発売時に、ノベルズを書かせて頂きました。

 

 しかし二足の草鞋というのも意外に厳しいものがありました。特に辛かったのは、文芸誌に発表する短編小説でした。売れっ子作家でもない私が、書けませんでしたということではとんでもないことになります。シゴトの合間に書くわけですが、なかなか進まない。担当の編集者方から進み具合を聞かれると、

 

「もう明日には原稿送れます」

 

「パソコンの調子が悪くって......」

 

「原稿、データが消えちゃったんです!」

 

 もう言い訳のオンパレードで、結局何時も出来上がるのは、締め切り当日のギリギリです。

 

 しかし不思議なんですよね。三週間も余裕があつたのに少しもペンが進まない。しかしいざ締め切り前日になると、アイデアが湯水のごとく沸いて来る。そして徹夜で一気に書き上げてしまう。

 

 元々だらしのない性格ですが、「火事場のクソ力」とも言いますが、土壇場に追い詰められた人間の底力ってのは凄いものがありますね。

静岡の思い出 その1

静岡には四年暮らしていました。初めての転勤で行った北海道もそうですが、この静岡も私に強烈なインパクトを残してくれました。というのもいろいろなことが凝縮されたように起こり、思い入れの強い街となりました。

自然環境は当然のごとく素晴らしく、伊豆の山々は本当に心を和ませてくれます。至るところに温泉もあります。下手なゴルフも熱心にやりだしたり、波乗りを久々にやったのもこの頃です。
ある日先輩から電話がありました。

「有賀、これからは波乗りの時代だよ」
「先輩、四十過ぎてもやるんですか?」
「バカ、ショートじゃねぇよ、ロングだよ」
「ロング?」
「おまえロンバケ、見てねーの?」

バブル時代からイケイケがまったく変わらないその先輩は、ロンバケを知らない私を見下げたように話ました。番組の中でマイク真木さんが、サーフィンをやり、しかもロングボードがすごくかっこいいと。

「来週、静岡まで行ってやるから付き合え」

その一言で、静岡にある静波海岸へ先輩と連れ立って行く事になりました。

「どうだ。痛いほどに視線感じるだろ」

先輩に借りたロングボードを脇に抱え砂浜を歩いていると、ショートボードをやっている連中からの視線が凄いんです。

「なっ、有賀。言った通りだろ。ショート全盛の中、こうやってロングボードを抱えていると、昔ブイブイ言わせた洒落たオヤジと思われるんだよ」

目立つことが大好きな先輩はそう言って、自慢気にロングボードを波に浮かべ、早速パドリンクで沖に向かい始めました。
私も痛いほど背中に浴びる視線を感じながら、ボードを海に浮かべでパドリング。
ところが、波が意外に立っていて、上手くパドリングが出来ません。おまけにロングは長いだけあって、扱いが難しいのです。
慣れている先輩は、さつさと波をクリアして沖に行っています。私は波との格闘が始まりました。二十年振りの波乗りとはいえ、沖に出られないなんて......。
20分くらい波と格闘していたと思います。結局疲れ果てた私は、ボードを脇に抱え、砂浜にトボトボと戻っていきました。

その時、はっとしました。
ショートの連中の刺さるようなまでの視線が......。

「な?んだ、このオヤジ、沖に出れねぇんだ。だせえなあ」

静岡支店へ転勤

 東京本社に9年居て、私は静岡支店に異動となりました。

 着任して三ヶ月が過ぎた頃、非常に困ったのは、支店のビルが繁華街の入り口にあることでした。夕方になると、取引先の方がひょっこり顔を出す。人と話すことが大好きな私は、すぐにシゴトを早仕舞いして、飲みに出てしまいます。毎晩のようにそれが続き、肝臓が壊れるか、財布が壊れるか、どっちが早いんだろうと思ったくらいでした。

 こりゃ少し運動しなきゃカラダが壊れるな、と思い、子供の頃から格闘技をやっていた私は、仲間内で会社の会議室を借りてキックボクシングの練習を始めたのでした。
 その仲間内で始めたキックボクシングの練習がトンでもないことになっていくのです。当時K?1がテレビで流され、格闘ブームになり始めの頃でした。練習を始めて一ヶ月くらいした頃、会社の後輩が、

「有賀さん、今度取引先の人が参加したいって言ってるんですが、いいっすか」
「いいよ」

 営業マンの私としては、地元に人脈も広げられるので、もちろんウェルカムでした。
 すると、今度は参加した取引先の方が、

「キック、私の友人も連れて来ていいですか?」
「どうぞ、どうぞ」

 こんな感じて、毎週水曜日に稽古に参加する人間が次第に増え始めたのです。
口コミの恐ろしさなんでしょうね。仕舞には、部下がナンパした女の子に、小学生、高校生、大学生、地元の消防士さんに留学生まで参加するようになり、いつのまにか30人近くに膨れ上がったのです。

 こうなると教える側の私も真剣に取組まなくてはならない。もうサークルの域を超えて道場のような感じでした。
 すると会社の後輩が言いました。

「有賀さん、ここまで人数が集まるなら、月謝取れば良かったですね」

 ボランティアで教えているとはいえ、その後輩の言葉を聞いた瞬間、私の脳味噌は電卓に変身していました。

四駆に惹かれて

 東京に居る頃は、週末に時間が取れると鴨川へサーフィンにも行きました。不思議なもので、海でぼうっとしていると、北海道の自然が思い出されるのです。バブルの真っ只中にいて、毎日、朝から晩、または深夜まで活動していると、ふと自然に包まれると何かが、不思議と心を落ち着かせてくれました。

 そんなある日、海沿いに停まっているランドクルーザーに目が止まりました。バブルの申し子の私は、街で目を引くようなクルマじゃなければクルマじゃないと決め付けていました。
 ですから四輪駆動というジャンルは、私のクルマ選びのカテゴリーには一切入ってなかったのです。にも係わらず、そのどっしりとした雰囲気に妙に惹かれました。そして北海道の頃、友人のランドクルーザーに乗って、スキーに行っていた頃を思い出したのです。
 そうなるとムクムクと四駆というカテゴリーが妙に気になりだし、とうとう衝動買いでいすゞのビッグホーンを購入してしまいました。

 このビッグホーンの購入は、また私の週末の行動パターンをすっかり変えてくれました。今度は林道巡りにはまってしまつたのです。国土地理院の専門の地図を買い、林道を走るのです。林道は元々林業従事者や地元の生活者の為に作られたものですから、スピードを上げて走るものではありません。路面は砂利道ですし、細い上に崖に面した道もありますから、注意が必要です。奥深く林道を進んでいくと、もうそこには都会の匂いなんかは当然しませんし、渓流があり、緑の木々に囲まれ、思い切り森林浴が出来るのです。湧き水でコーヒーを入れ、ぼんやりと過ごす。何とも贅沢な時間でした。
 こういったのんびりと過ごした時間が、また物書きとしての一つのきっかけを作ってくれました。

 その頃、シナリオの修業も落ち着き、私はあるご縁で、小説家の今は亡き山村正夫先生と出会うことが出来ました。作家としての基礎を作り上げてくれたのが杉村先生で、小説家として世に送り出してくれたのが山村先生でした。

 私は昔から人の出会いに恵まれている方で、節目節目に人生のきっかけを与えてくれる方に巡り合う傾向にあります。
 その山村先生のお陰で、小説家として世に出ることが出来たのです。デビュー作品は、骨髄ドナーが誘拐されるというハードボイルドで、林道の話もふんだんに取り入れました。作品名は、「死神島(角川書店)」でした。

作家を目指して

 当時、「コピーライター」「シナリオ・ライター」というカタカナ職業が割りと人気がありまして、カタカナ職業人が女優と浮名を流すというのも雑誌で良く目にしたものです。

「う?む。こりゃ作家になるしかないな――」

 そして一夜漬けで書いた短編の作品が、ある雑誌の公募でなかなか良いセンまでいったのです。

 至ってポジティブ・シンキングな私は、「俺は天才だ!」と思うのは当たり前の展開です。それ以来、いろんな雑誌に投稿しまくり。しかし応募する片っ端から、一次予選も通らない。

「初めて書いた作品はビギナーズ・ラックだったのかなぁ」

 そう悩み始めた私は、あるきっかけで、脚本家の弟子入りをすることになりました。その方は、有名な刑事ドラマ「太陽にほえろ」でデビューした故杉村升先生です。

 通い弟子ということで、会社のシゴトが終わってから、晩の9時くらいから先生の事務所に行き、それから帰るという生活を5年間ほどやりました。当然、朝から事務所に居る弟子達と違い、サラリーマンですからもう土・日は一切なし。当時の睡眠時間は平均すると四時間くらいでした。

 杉村先生の下で実際のテレビ番組、「裸の大将」や「西部警察」、「東映の戦隊シリーズ」等をずっと書いてました。

 今でも覚えているのは、入門した時先生に言われたことです、
「作家として世に出れなくても、シナリオを学ぶということは、サラリーマンとして役に立つ」ということです。
 この意味は、修業して3年過ぎる頃に何となくわかってきたのです。その先生の言われた意味や、作家修行の話はあまりにも沢山あり過ぎで、別の機会に書かせて頂きたいと思います。

 そんな5年が過ぎ、初めてスクリーンに自分の名前が出ました。師匠と連名で、脚本「有賀博之」と。テロップは画像に写っているのはほんの数秒です。でも私にしてみれば、その数秒が、5年間の集積でした。
物凄く涙が止まらなかったのを覚えています。

本社勤務時代

 本社に戻ったのは、27の時――。

 北海道が良かったなぁ?なんて思いつつも、すぐ浮世の流れにいとも簡単に流される私は、五年の遅れを取り戻すべく、毎日のように銀座・六本木に発狂したかのように出没していました。
 当時流行っていたのは、日比谷にあった大箱ディスコ「ラジオシティ」。確か私の記憶が間違いなければ、あのVANを創設した故石津謙介さんがプロデュースした箱のはず。
 曲は懐かしのアースウインド&ファイアーもかかれば、バナナラマのノリノリのユーロ。場内はいつもボディコンの姉ちゃんたちが発するフェロモンで盛り上がっています。またお立ち台の姉ちゃん達のストッキングが妙にセクシーで。

「やっぱ、東京だよな?」

 もうこうなると支笏湖の神秘的な輝き、ニセコの美しさなんてものは頭の中からすっかり欠落です。それに日本中全体が活気(バブル)に溢れ、ガンガン前に進むという感じでした。
 シゴトで営業活動中に証券会社のボードをチェックしたり、あちこちで「○○買って一週間で100万儲けたよ」なんて強気のフレーズがバンバン耳に入って来ます。考えてみれば、誰もが株で儲かる時代だったんです。それでも「ひょっとして俺は株の天才?」「会社辞めて株で喰えるなぁ」と大いなる錯覚の日々でした。

 とにかく経済界全体が浮かれトンビ状態だったですね。今だったら信じられないような住宅ローン金利、6パーセント台でも物件は飛ぶように売れてました。
 当時、信託銀行のビッグという商品が、100万円を5年預けて140万で返ってくるにもかかわらず、

「貯蓄!?」

 おまえはバカか!今使わないで何時使う?金なんか後からでも付いてくる!
 まさに狂気の世相でした。

 クルマもそうです。シーマ現象が日本中を席巻し、BMW318は「六本木カローラ」と揶揄され、ビーエム乗るなら最低でも320以上。そして五木寛之さんの「雨の日は車を磨いて」に感化された大学生どもは、ポルシェを「ポーシェ」と気取って発音する始末。 
そして時流に敏感な私も負けちゃいられないとばかりに、月払い5万円 ボーナス払い25万円の5年ローンで、ソアラからサーブに乗り換えました。購入のきっかけは本当にシンプルでしたね。
当時の売れセン雑誌JJに、

「今、助手席に乗りたいクルマ ナンバー1は、品川ナンバーのサーブ――」

初めての北海道

 私は大学を卒業後、26年間、損害保険会社に勤務しておりました。振り出しの新入社員の時は北海道支店勤務で、「抜けるような空の青さ」という自然の美しさを初めて知りました。というのも私は東京生まれの東京育ちのせいもあり、どちらかというと繁華街のネオンという造形美の中で、チャラチャラとした学生時代を過ごしていたからです。
 そんな私が雪国勤務! 辞令が出た日には、まさに発狂ものでした。

 学生時代からスキーはやっていましたので環境的には最高。ただ住むとなるとやはり別でした。
 雪が降ると毎日毎日、雪との格闘です。お洒落好きな私にとって、皮底の靴は滑るしもったいなくて履けない。地元で売っているギザギサのゴムの付いた靴はなんとも野暮ったい。まして長靴なんて履く気もしない。仕方がなく選んだのは、学生時代に履いていたクラークスの「ワラビー」を通退勤時に使いました。それでもくるぶしの部分から雪が入ってきてしまいます。とにかく冬場の生活は、並べたらきりがないほどの愚痴ばかり。初めて迎える冬は、何とも言えないブルーな毎日でした。
 ひと冬が終わり、確かゴールデン・ウイークの頃だったと思います。何気なく空を見上げた時です。
 そこには、雲ひとつないスコーンと抜けるような青空!

「ひぇ?」

 どこまでも、どこまでもきれいなブルーが広がっていました。
 よく北国の方の「春が待ち遠しい」というフレーズを聞くことがあります。厳しい冬を過ごすと、暖かい春が来る。まさにそれを実感した次第です。
 抜けるような青空を初めて知った私は、それ以来どっぷりと北海道という自然の国にはまってしまったのです。上手く説明出来ませんが、高校・大学生の頃に感じる季節感は、街が教えてくれました。本屋で手にするファッション雑誌や洋服屋さんののディスプレイ。そして街の匂い。それが北海道では違いました。春、夏、秋、冬。空気、回りの木々、そして緑。
 自然がきちんきちんとこれから向かう季節を教えてくれたのです。その上、松山千春さんの歌が北海道にはピッタリで、夏なんかは「長い夜」聞くと、大自然の生活に完全にはまってましたね。

 そんな楽しかった五年の北海道の勤務が終わり、転勤で私は東京の本社に戻りました。
 そこで不思議な感覚に陥りました。何となく、生まれ育った東京という街にしっくりこなかったのです。十年ひと昔といいますが、現代社会のスピードはもっと速く、5年間という年月は、私をどうやら「今浦島」にしてしまったようです。
 まず第一に歩くスピードが遅くなっていました。せっかちな私は歩くのが早い方でしたが、街の変化に絶えず驚いて見回しているので、どんどん人に抜かれてしまうのです。
 そしてある日のこと。北海道から戻った私に、学生時代の仲間が六本木で復帰会を開催してくれました。何次会かの後、立ち寄ったショットバーでのこと(当時、ショットバー文化の流行り始めの頃で、私はまったく知らなかった)。

「ジンフィズ!」

「ブラントンをロックで」

 仲間が次々にオーダーしていく様子を見て、私が口にした言葉は、

「おい、ボトル入れた方が安いんじゃねぇ?の?」

 一同きょとんとして、ある友人が、

「おまえショット・バー、知らねーの!?」