2008年6月アーカイブ

四駆に惹かれて

 東京に居る頃は、週末に時間が取れると鴨川へサーフィンにも行きました。不思議なもので、海でぼうっとしていると、北海道の自然が思い出されるのです。バブルの真っ只中にいて、毎日、朝から晩、または深夜まで活動していると、ふと自然に包まれると何かが、不思議と心を落ち着かせてくれました。

 そんなある日、海沿いに停まっているランドクルーザーに目が止まりました。バブルの申し子の私は、街で目を引くようなクルマじゃなければクルマじゃないと決め付けていました。
 ですから四輪駆動というジャンルは、私のクルマ選びのカテゴリーには一切入ってなかったのです。にも係わらず、そのどっしりとした雰囲気に妙に惹かれました。そして北海道の頃、友人のランドクルーザーに乗って、スキーに行っていた頃を思い出したのです。
 そうなるとムクムクと四駆というカテゴリーが妙に気になりだし、とうとう衝動買いでいすゞのビッグホーンを購入してしまいました。

 このビッグホーンの購入は、また私の週末の行動パターンをすっかり変えてくれました。今度は林道巡りにはまってしまつたのです。国土地理院の専門の地図を買い、林道を走るのです。林道は元々林業従事者や地元の生活者の為に作られたものですから、スピードを上げて走るものではありません。路面は砂利道ですし、細い上に崖に面した道もありますから、注意が必要です。奥深く林道を進んでいくと、もうそこには都会の匂いなんかは当然しませんし、渓流があり、緑の木々に囲まれ、思い切り森林浴が出来るのです。湧き水でコーヒーを入れ、ぼんやりと過ごす。何とも贅沢な時間でした。
 こういったのんびりと過ごした時間が、また物書きとしての一つのきっかけを作ってくれました。

 その頃、シナリオの修業も落ち着き、私はあるご縁で、小説家の今は亡き山村正夫先生と出会うことが出来ました。作家としての基礎を作り上げてくれたのが杉村先生で、小説家として世に送り出してくれたのが山村先生でした。

 私は昔から人の出会いに恵まれている方で、節目節目に人生のきっかけを与えてくれる方に巡り合う傾向にあります。
 その山村先生のお陰で、小説家として世に出ることが出来たのです。デビュー作品は、骨髄ドナーが誘拐されるというハードボイルドで、林道の話もふんだんに取り入れました。作品名は、「死神島(角川書店)」でした。

作家を目指して

 当時、「コピーライター」「シナリオ・ライター」というカタカナ職業が割りと人気がありまして、カタカナ職業人が女優と浮名を流すというのも雑誌で良く目にしたものです。

「う?む。こりゃ作家になるしかないな――」

 そして一夜漬けで書いた短編の作品が、ある雑誌の公募でなかなか良いセンまでいったのです。

 至ってポジティブ・シンキングな私は、「俺は天才だ!」と思うのは当たり前の展開です。それ以来、いろんな雑誌に投稿しまくり。しかし応募する片っ端から、一次予選も通らない。

「初めて書いた作品はビギナーズ・ラックだったのかなぁ」

 そう悩み始めた私は、あるきっかけで、脚本家の弟子入りをすることになりました。その方は、有名な刑事ドラマ「太陽にほえろ」でデビューした故杉村升先生です。

 通い弟子ということで、会社のシゴトが終わってから、晩の9時くらいから先生の事務所に行き、それから帰るという生活を5年間ほどやりました。当然、朝から事務所に居る弟子達と違い、サラリーマンですからもう土・日は一切なし。当時の睡眠時間は平均すると四時間くらいでした。

 杉村先生の下で実際のテレビ番組、「裸の大将」や「西部警察」、「東映の戦隊シリーズ」等をずっと書いてました。

 今でも覚えているのは、入門した時先生に言われたことです、
「作家として世に出れなくても、シナリオを学ぶということは、サラリーマンとして役に立つ」ということです。
 この意味は、修業して3年過ぎる頃に何となくわかってきたのです。その先生の言われた意味や、作家修行の話はあまりにも沢山あり過ぎで、別の機会に書かせて頂きたいと思います。

 そんな5年が過ぎ、初めてスクリーンに自分の名前が出ました。師匠と連名で、脚本「有賀博之」と。テロップは画像に写っているのはほんの数秒です。でも私にしてみれば、その数秒が、5年間の集積でした。
物凄く涙が止まらなかったのを覚えています。

本社勤務時代

 本社に戻ったのは、27の時――。

 北海道が良かったなぁ?なんて思いつつも、すぐ浮世の流れにいとも簡単に流される私は、五年の遅れを取り戻すべく、毎日のように銀座・六本木に発狂したかのように出没していました。
 当時流行っていたのは、日比谷にあった大箱ディスコ「ラジオシティ」。確か私の記憶が間違いなければ、あのVANを創設した故石津謙介さんがプロデュースした箱のはず。
 曲は懐かしのアースウインド&ファイアーもかかれば、バナナラマのノリノリのユーロ。場内はいつもボディコンの姉ちゃんたちが発するフェロモンで盛り上がっています。またお立ち台の姉ちゃん達のストッキングが妙にセクシーで。

「やっぱ、東京だよな?」

 もうこうなると支笏湖の神秘的な輝き、ニセコの美しさなんてものは頭の中からすっかり欠落です。それに日本中全体が活気(バブル)に溢れ、ガンガン前に進むという感じでした。
 シゴトで営業活動中に証券会社のボードをチェックしたり、あちこちで「○○買って一週間で100万儲けたよ」なんて強気のフレーズがバンバン耳に入って来ます。考えてみれば、誰もが株で儲かる時代だったんです。それでも「ひょっとして俺は株の天才?」「会社辞めて株で喰えるなぁ」と大いなる錯覚の日々でした。

 とにかく経済界全体が浮かれトンビ状態だったですね。今だったら信じられないような住宅ローン金利、6パーセント台でも物件は飛ぶように売れてました。
 当時、信託銀行のビッグという商品が、100万円を5年預けて140万で返ってくるにもかかわらず、

「貯蓄!?」

 おまえはバカか!今使わないで何時使う?金なんか後からでも付いてくる!
 まさに狂気の世相でした。

 クルマもそうです。シーマ現象が日本中を席巻し、BMW318は「六本木カローラ」と揶揄され、ビーエム乗るなら最低でも320以上。そして五木寛之さんの「雨の日は車を磨いて」に感化された大学生どもは、ポルシェを「ポーシェ」と気取って発音する始末。 
そして時流に敏感な私も負けちゃいられないとばかりに、月払い5万円 ボーナス払い25万円の5年ローンで、ソアラからサーブに乗り換えました。購入のきっかけは本当にシンプルでしたね。
当時の売れセン雑誌JJに、

「今、助手席に乗りたいクルマ ナンバー1は、品川ナンバーのサーブ――」