有機農業を始めて37年
「このイチゴを食べてみて下さい。有機農業でイチゴを作っている農家はとても少ないので、貴重ですよ。」と言われ、有機で育てられた女峰いちごを一粒いただいきました。さわやかな甘さでした。
1971年から有機農業を続けてきたのは埼玉県比企郡小川町で「霜里農場」を営む金子美登(かねこよしのり)さんの畑です。農場の3haの敷地内には畑、母屋があり、数十羽の鶏、合鴨、3頭の牛などが飼われています。
屋根には太陽電池、庭には牛糞を活用したバイオガス施設があり、調理用ガスと液状肥料となり、近くの里山の間伐材を活用したウッドボイラーで給湯と床暖房をするなど、エネルギー自給にも取り組んでいるのです。食糧の自給だけでなく、エネルギーの自給まで。こんな農家が日本にあるとは知りませんでした。
有機栽培いちご
近年は有機農業やバイオマスなど地域資源を生かした循環型のまちづくりとしても知られ、都会から多くの若者が移り住んでいます。
金子さんが有機農業を始めた1970年代初頭は、民間のシンクタンク「ローマクラブ」がまとめた「成長の限界」というレポート1972年に発表された頃です。そのレポートは現在のままで人口増加や環境破壊が続けば、資源の枯渇や環境の悪化によって100年以内に人類の成長は限界に達すると警鐘を鳴らすもので、世界で大きな反響を呼びました。
そして、破局を回避するためには、地球が無限であるということを前提とした従来の経済のあり方を見直し、世界的な均衡を目指す必要があると主張されていました。翌73年には石油ショックはローマクラブの警告がまさに現実のものとなった最初の出来事でした。
また、1970年は日本で"減反政策"が始まった年でもありました。米の在庫が増加の一途をたどったため、政府は、新規の開田を禁止し、政府米買入限度の設定と自主流通米制度の導入、一定の転作面積の配分を柱とした本格的な米の生産調整を行うことを決めたのです。
金子さんは、この時、農家はやる気を無くし、人々は米を大切にしなくなると思ったと言います。こうしたことが起きる中で、金子さんは「生態学的農業」を始めたのでした。
土には沢山の微生物が
「有機農業推進法」が制定されて
野菜を買うなら、地元の無農薬野菜が良いと思う人が増えていますし、最近は小売店の野菜売り場に行けば「有機」というコーナーが目立つようになりました。しかし、調べてみて驚いたのですが、日本の有機農産物の生産量は、たったの1%程度なんです。そして、「有機農業の推進に関する法律」ができたのは2006年12月のこと。
金子さんもその法律の成立に大いに尽力されました。
同法律では、「有機農業は、農業の自然循環機能を大きく増進し、かつ、農業生産に由来する環境への負荷を低減するもの」とされています。翌年の2007年4月に、農水省は「有機農業の推進に関する基本的な方針」を策定し、普及に向けた5ヶ年計画がスタートしたのです。
有機農法は、食べる人、作る人の健康に良く、土壌も健康にし、沢山の微生物、鳥や虫の棲む豊かな生態系が育まれるものです。そして、地域のものを食べることで輸送に関わるCO2の排出量を減らすこともできるのです。
エネルギーも自給
根の無い国、日本
日本の食糧自給率は40%と低く、全国の農業者は高齢化し、耕作を放棄された農地が増えています。金子さんはそんな日本の状況を「切り花国家」と言います。農業や農村といった根の部分が乏しく、商業工業ばかりが大きくなっていったからです。
金子さんは、提携する消費者に野菜やお米を届けるだけでなく、霜里農場の農産物を原料とした日本酒、うどん、お醤油、豆腐など農商工連携事業にも力を入れ、それらの商品は確実に支持が広がってきました。
そして、その様子をみて、2001年に同じ地区の慣行農法(農薬や化学肥料を使う農法)農家の方が1軒、有機農業に転じ、次いで2003年には3軒の農家が転向したのです。2009年2月現在で下里地区における慣行農家(自給的農家は含まず)は残すところ2軒になりました。
この2軒の農家が有機農業に転じるためには、生産物であるお米を適正な価格で買い支える事が肝要です。日本ではまだ集落全体が有機農業である地区はなく、この2軒の農家が有機農業に転じれば「日本初の有機の里」が実現することになります。
そして、金子さんは、これまでに国内外から100人を超える研修生を受け入れ、農業の後継者を育成してきました。次の時代の農業を担う有機農業者が各地で着実にその輪を広げているのです。
霜里農場 http://www.shimosato-farm.com/
ゆうきひろがるキャンペーン http://www.yuki-hirogaru.net/index.html